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ダメ人間のオタク浪人のブログ・9つ目。
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Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島には、雨期には農業労働者がやってくる。彼らは、粟とモロコシの草取りに従事する。これらの農業賃労働者を雇うことは、家族の労働力の不足を補い、彼らの一部をさいて群の見張りをさせ、または移牧の間群を率いさせることを可能にする。


であるから、特にモロコシの栽培地に関しては、犂を使うような投資も行われる。住民の多くは、モロコシの畑に種を蒔くに際して、このような耕作法に頼る。だが、畑が小さいために、これらの農牧者たちは、その費用が数頭の獣を売ることを必要とすることになってもこれらの労働力を利用する。これらの労働力は、Dosso、Boboye地方、そしてZarmagandaからも来る。


島はまた、Niger川の西とBe[鋭アクサン]ninから来る羊飼いたちにとっての放牧領域ともなる。これらの飼育者たちの島での滞在は数ヶ月続く。


Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島の住民にとって、peul語でMayo Mallal Maddi、zarma語でIssa Be[鋭アクサン]ri(大きな川)と呼ばれる太い方の支流は、Be[鋭アクサン]ninとNigerの間の国境となっている。植民地時代から、島の住民には、この支流を渡るとBe[鋭アクサン]nin人の領域であるという意識があった。現地の意味体系では、この太い方の支流は、zarma語でIssa Kai[トレマ]na(小さな川)ないしはpeul語でMayel Younaと名付けられ、Ouna村の側を通っている細い方の支流と区別されている。


彼らの自由な移動を妨げている問題も、この観念を補強している。実際、国境についての緊張の時期の間、島の住民は、川の右岸の村や市場を訪れた際、あらゆる種類の報復を受けた。Karimamaの市場を訪れた住民たちは、丸木舟を下りるやいなや憲兵から金を要求された。羊飼いたちは、より多くの放牧税を支払わされ、多額の罰金・監視・動物殺し・肉体的な損害など、あらゆる種類の侮辱を受けた。これが、紛争の時期には彼らが滅多に国境を越えなかった理由である。この場所が使えなかった間、彼らはNiger側、しばしばounaの市場に向かった。国境紛争は、島とNigerに対する強い帰属意識を伴った。島の住民たちは、島に翻り、この空間の主権と権威を示すNigerの旗を降ろすことを拒んで、Be[鋭アクサン]ninの憲兵の策謀を退けた。彼らはまた何度も右岸のBe[鋭アクサン]nin人が島に植えた種を取り沿い他。また、Be[鋭アクサン]ninの医師団によるワクチン接種を拒んだ。1960年の悲劇的な出来事も、島の住民の帰属意識を明らかにした。一方で、彼らはBe[鋭アクサン]nin人の羊飼いがこの島に移牧に来ることを決して拒みはしなかった。




オタク浪人がGoogleEarthで見たところ、このLe[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島は、ほぼ完全に砂州のように見える。Niger川はここに限らず全体的に川の蛇行によって生じた三日月湖が多いのだが、この島の内部にも河道ないしはその跡と見られる部分があり、全体を一つの島と見ることも前提知識がなければ難しく、本文記載の位置情報によって確認したのでなければ、ここをLe[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島と同定するのも難しかったろう。一見したところ植生があるようにも見えず、限界近くまで拡大して始めて、本文に記されている砂質高地上に、樹木がいくらかと住居らしき構造物があるのが確認できた。もっとも、河道跡が見える部分(ここがおそらく本文で言う浸水地帯)が黒く見えるのは、或いは草が生えているからかもしれない。

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Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島の住民たちは、島の外にも、その移動性によって、領域を持っている。これには、本質的に大西洋岸への季節的な移住のほか、Gaya方面や、Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島外への移牧もある。であるから、移動空間の構造は、複数の方向の極へ向かう扇状をなしている。とりわけ、Be[鋭アクサン]nin、togo, Nigeria,がそうである。だが、住民の移動空間は他の場所、とりわけGayaの近くの町、Burkina Fasoへも向かっており、Burkina Fasoは、DjayoriとKoroaの小集落の住民の一部を受け入れている。


Gayaにへ行った移民はそこで基本的に小さな商売をしており、Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島に依拠した集団に属していることで特異性を持っている。彼らの大部分はもはや群を持っておらず、農業と移民から得られた資源に頼って生活している。


Burkina Fasoに滞在している移民について言うと、彼らは皆Volta地方で漁業をしている。移民の多くは、立った動物を販売することに特化している。これらの動物は、大抵、動物市場を求めてDosso県から来ている。他の者たちは、Be[鋭アクサン]ninやTogoで羊飼いとして雇われている。彼らは、飼育に特化していない飼い主のために、牛の群の日々の見張りをしている。羊飼いたちは、四ヶ月が終わったところで、報酬として牛一匹を受け取る。その牛は、150[15万の意か]~20万Fcfaになる。これは、行う上での危険、とりわけ川の存在あるために、とても実入りの良いものとなっている。移民たちにとって、Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島は、繋がりの地であり、数ヶ月の他国での滞在の後に帰る場所となっている。


移植の必要という古典的な満足のほかに、この出稼ぎは、二つの結果をもたらす。一つには、これは販売する動物を節約し、家族の生存を確保するための補完的な食料の購入を可能にする。もう一方で、状況がそれを可能にするのならば、この資源は動物を買って群を拡大することのためにも使いうる。

KoroaとDjayoriそしてIssa Koi[トレマ]raの小集落の人間は、漁業と農業を組み合わせて生活している。もともとは漁業だけを行ってきたが、この活動から得られる資源の不足が、彼らに住居のすぐ周辺で農業を営ませることになった。彼らは、基本的にモロコシ、玉蜀黍、米を栽培している。彼らは、島の最初の占拠者たちと彼らの子孫たちがそうしているようには、toudouに粟の栽培のための土地を持っていない。彼らは、それをrouga(村の長老)から借りている。


農業は、ここでは、生き延びるための生産体系に統合されている。これは、漁業を補完する活動となった。農耕のための耕地の不足、しかも、その耕地がしばしば川の増水のために損なわれることが、この共同体の構成員を恒常的な食糧不足に置いている。漁業資源は、家族の生存を確保するための必需品の購入に充てられる。漁業による収入が家族の生活の必要を満たすに足らないことが、農業を行うことを必要にさせている。この活動に当てられている面積の大きさと、それを主要な活動にしている人口の多さから言えば、牧業はLe[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島の職業の中で第一のものであり続けている。


この島の土地は、最初の占拠者たちの子孫とその家族に相続によって属している。残りの住民は、畑を借りることを余儀なくされている。個人、または家族による島状砂質高地の土地の取得は、その恒久的な利用か、またはしばしば一時的な宿営を設けることで実体化された。反対に、放牧に捧げられている浸水地帯は共同体に属する。この放牧領域に時折行われる野焼き[bru[曲アクサン]lis]を除き、これらの土地の取得を実体化するものは何もないが、一方で、一つの場所は、その構造とその周辺を物質的に改変することによって取得される(Moles, 1992)(*)。この牧草地は、争点の中心である。漁民は、川から得られる資源だけでは生活できなくなってからよれ多くの耕作地を望むようになっており、群をもはや所有しなくなった島の住民の一部も同様である。島の土地の所有者である農牧者は、放牧領域を減少させて二つの共同体の間の紛争を重大化させることになる耕作地の拡大を望んでいない。


漁農民は、この島を放牧領域だとは考えらおらず、潜在的に利用可能な耕地だ見なしている。島の浸水して改良可能な土地は、この放牧領域に農地としての大きな可能性を可能性を見いだしている近村の住民たちの渇望をも引きつけている。右岸のBe[鋭アクサン]nin人も、日の島の豊かな土地を渇望している。それが、彼らがこの島に種まきに来ている理由であり、争いを再燃させている。


場所[の使途]が特化していることは、農業と飼育の間での空間の競争を緩和しているが、農牧民についてはそれほどそうではない。浸水地帯と島状砂質高地との自然的な分化は、場所の特化をもたらしている。前者は放牧のためのものであり、後者は農業のためのものである。一方で、このような土地の二分化は固定的なものではない。これは、人口の増大とその帰結、耕地に対する必要の拡大、川のあり方の変化と増水の弱化による耕作地の拡大、に従って動的である。


この体制は、とりわけ牧草地と耕作地の過剰使用によって、ますます困難に直面している。この島に大きな群がいることは、牧草地の消耗と劣化を引き起こしている。この状況は、飼育者の一部にBe[鋭アクサン]ninに移牧に行くことを余儀なくさせている。土地の過剰使用は、大量の糞肥の投入にもかかわらず、収穫を減少させている。




(*)Moles A., 1992- Vers une psycho-ge[鋭アクサン]ographie. In: Bailly A., Ferras R. et Pumain D., dir.- Encyclope[鋭アクサン]die de la ge[鋭アクサン]ographie. Paris: Economica, p. 159-188

Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島の羊飼いの移牧によって通過される空間は、三つの極を持っている。この空間は、そこを中心として移動の周期が組織される基準点を構成する放牧領域に対応する主要な極を拠り所としている。移動の経路は、大まかに二つの方向を結びつけたものである。一つの方向は、南の、Be[鋭アクサン]ninとNigerの間の国境を越えるものであり、一つは北の、Dosso地方の高原に至るものである。動物の移動は、三つの放牧領域の中で、飼料となる植物と作物の周期に従う。これらは、雨の季節的周期、川の二つの増水期に結びついている。Dosso地方への移牧に際しては、羊飼いたちは通常家族と共に移動するが、Be[鋭アクサン]ninへの移牧に際しては、彼らは家族を島に残す。Be[鋭アクサン]nin滞在の危険が、移牧慣行におけるこのような違いを説明する。


[表3: 7~9月、11~3月の放牧領域は、Bara, Mai[トレマ]kada, Zamtouri Bangou, Fakara Be[鋭アクサン]ri周辺、5~7月の放牧領域はLe[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島の南東端から南に20kmの地点、3~7月と10~11月の放牧領域は、Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島内部。]


Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島は、島の羊飼いにとって、家族の一部が残り、とてもわずかの動物を残していく、主要な繋がりの地となっている。これは、特に乳牛についてである。しかしながら、移牧の異なる経路についての諸制約を考慮に入れ、群と共に島に残って、一時的に川の土手を占拠するものも相当数いる。島は、であるから放牧の主要な領域となっている。移牧のために川を見下ろすNiger側の高原やDosso地方に発った飼育者たちは、収穫の後の9月末から、農作物の残余からなる乾期の飼料の利を得るためのgne[鋭アクサン]le[鋭アクサン]のために戻ってくる。


彼らはそれから、水が引く時期に島に戻ってくる前に、川の左岸の畑でgne[鋭アクサン]le[鋭アクサン]をする。


3月以降、増水した水は次第に引いていき、草性植物が浸水地帯を覆って、飼料となる草が大量に得られるようになり、Be[鋭アクサン]ninやNigerの一部地域からの飼育者も引きつけるようになる。増水が大きければ大きいほど、放牧地は豊富になる。雨期が来る前には、この過剰に利用された地は動物の食料として必要な飼料を満たさないまでになる。この状況は、飼育者に、5月以降、Nigerの国境を越え、Be[鋭アクサン]nin北部に動物を連れて行くことを余儀なくさせる。彼らは、最初の草取りが始るまで島に戻らず、しかもごくわずかの時間しか留まらない。実際、この短い帰還の後、彼らはDossoやGayaの高原の内部深くまで移牧を続ける。


二つの主要な理由が、高原における移動の動機となる。7月以降の雨に伴う水位の上昇が、小河床のすぐ近くにある放牧地を浸水させ、放牧領域を減少させる。一方で砂質高地が耕作されるようになり、島内における動物の移動を制限するようになる結果、多くの飼育者がこれらの高原に放牧地を求めることを余儀なくされる。移牧の主要な目的は、年間を通じて動物に緑の牧草を与えることであった。この二つの基本的な理由に、この時期の高原において飼料を手に入れることが出来ると言うことと結びついたもう一つが加わる。


一方で、最近では、巡回を妨げる障害により、ほとんどの飼育者は国境の向こう側での移牧をしない。実際、Be[鋭アクサン]ninとNigerとの関係の情勢に結びついたものや、獅子による動物への攻撃などが、一部の飼育者に国境の反対側で移牧をする気を無くさせている。放牧に対して各動物ごとに税が事前徴収されること、罰金、Be[鋭アクサン]ninの森の民による動物殺しなどを避けるため、多くの飼育者がこの移牧経路を放棄している。


雨期の間のZigui高原(*原注4)への移動は、牧草地の劣化、水飲み場の不足、耕作地の拡大という障害を受ける。実際、耕作地の拡大は縮小された牧畜領域を損なう。


移牧に対する相対的な制約は、季節的な牧畜移動を変化させる。島のますます多くの飼育者が、移牧経路をもはや取らなくなっている。


(*原注4)1960年6月の29日から30日の夜、Niger川の右岸のBe[鋭アクサン]ninの攻撃者がLe[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島の住民を攻撃、4人を死亡させ、うち村長は、47件の自発的な放火の中で生きながら焼かれた。[注が挿入されている位置は適切ではないと思われるが、原文のままとしておく。]

Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島における農業と牧業の緊密な結びつきは、様々な水準で見られる。休耕地もなく作付面積の拡大も不可能な中での農地の過剰使用が行われているため、動物の糞肥の投入は決定的である。であるから、粟の栽培に使われる土地の施肥のために牧業が繰り返し要請される。このために収穫高の減少は最低限に抑えられ、ほとんど同じ収量が維持されるぐらいになる。この施肥方法は、経営単位の動物の放牧により最も頻繁に行われる。糞肥の生産は、動物の頭数と飼料資源と[を変数とする]関数である。


本質的に牧業に向いているこの島は、水が引き、自然的に彼らのためのものである地面が減少する時期には、多くの群が出会う場所となり、重要な群、特に牛の避難所となる。


経営単位の動物の頭数が家族の畑への施肥のために足らないときには、家長は、両親や、島に滞在している他の飼育者の援助を求める。この場合、畑の持ち主が飼育者に飼料を提供する伝統的な契約と異なり、感謝の代わりにkolaの木の実の簡単な贈り物で十分である。飼育者によるほとんど無償のこの奉仕は、この島の住民と外部から来る羊飼いとの間の絆の枠組みに刻み込まれている。


住民にとって必要な食料を満たすために農業生産が十分でないことは、必要な栄養を補完するために、彼らに動物とその産物、とりわけ乳を売ることを余儀なくさせる。粟の栽培のための土地が少ないことと、耕地を拡大することが不可能なため、農業生産は住民の年間の必要を満たさない。そのため、牧業が農業に対する助けとなる。幾人かの農牧者だけが、とりわけ大きな農地を持っている者だけが、毎年家族の栄養的必要を満たすだけのものを生産することが出来る。


しかし、農業と牧業を営むことに幾つもの有益さがあるとはいえ、幾つかの不都合も存在する。動物が耕地に与える損害に加え、二つの活動の間の空間の競合も強調する必要がある。浸水地帯の周辺においては、耕地の全域にわたって農耕地の牧畜地への浸食が生じている。もう一つの不都合さは、経営単位における労働力の運用に関してである。これは、農業活動[にかける時間]のいくらかを群を率いるとこに割り当てることで行われる。しかし、この戦略は、家族の労働力が十分でないため、しばしば限界を招く。幾つかの経営体の長は、草取りに際し、この不足を補うために、賃金労働者か共同体の仕事の助けを借りる。


糞肥をもたらすことに加えて、飼育を行うことは農業に対する担保になる。それは、必需品を購入するための資源をもたらし、農業生産の不足を補う。動物を売って得た金もまた、雑草が耕地に侵入しないための草取りの資金源になる。

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