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ダメ人間のオタク浪人のブログ・9つ目。
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砂質高地は粟の栽培に向けられたものとなっており、浸水地帯の重い土と対比される。浸水地帯、とりわけ窪地と周辺地帯においては、土壌は表面からgleyまでの緑灰色や緑黒色の水様形態[hydromorph]である。この浸水地帯のごくわずかな部分、とりわけ砂質地の周辺、その中間地帯とKoroa, Dje[鋭アクサン]yori, Issa Kwaraの周辺においてのみ、玉蜀黍・モロコシ・米が栽培されている。


最近二年間の増水によって引き起こされた浸水は、栽培作物の生産に大きな影響を及ぼし、この空間における農業を運任せのものとした。


Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島には多くの一時性の沼が散りばめられており、その前進的な干上がりは、喚起の終わりにおいて豊富な緑の牧草地を提供する。同じ時期に、これらの沼地は、特にKoroaの住民にとって、haoussa語でrigia n'kiffi(文字通りには「魚の井戸」)と呼ばれる溝で魚を捕らえることを可能にする。この溝は直径3m、深さ1mであり、沼地の中の窪みとなっていて、水が引く際に魚を閉じ込めるものとなっている。


Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島の自然的な潜在能力は、浸水地の重要性となっても現れる。浸水地帯は、とても密度の高い湿気を好む植生がある。相当遅くなってから水が引く水路の中のEchinocloa pyramidalis, Echinocloa stagnitaなどである。島状の砂質高地には、しばしばここあそこに幾つかの木(とりわけAndansonia digitata(baobab)、Butyrospermum parkii(karite[鋭アクサン])、Piliostigma reticulatum(zarma語でkossey))を伴って自然植生の本質的なものを構成するro[曲アクサン]niers(Borassus aethiopium)の繁殖がある


この地域は、soudano-sahe[鋭アクサン]lienの型の気候である。雨期(この地域では、Nigerの他の地域以上に雨期が長い)の長さは、ここを、nigerで最も多湿な地帯とする。1968~1997年の平均降雨量は、Gayaの観測所において、788.4mmであった(全国気象局)。


Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島は、であるから、農業と牧業に好適な条件を提供する。このような立地と結びついた自然特性を持っていることは、Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島をもNiger領のNiger川全体の中でも特異なものとしている。

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Harouna Mounkaila, Espace frontalier et appropriations territoriales: jeux et enjeux de l'i[曲アクサン]le de Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン](Niger),in: Les Cahiers d'Outre-Mer, vol.63, n[上付きの○]249, 2010, Janvier-Mars

Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島は、Be[鋭アクサン]ninとNigerとの間の国境の川の上、北緯12度04分から13分の間、東経3度07分から13分の間に位置する。面積は約30km^2、北西-東南方向に伸び、周囲は約16km、最大幅は4km、標高は150~166mである。


島には、2000年現在、約2000人の住民がおり、人口密度は67人/km^2である。この島の最初の住民は、19世紀の末にやってきたPeul人である([Esperet, 1917])。彼らの定住は、現地における飼料資源の手に入れやすさの重要性に規定された。当初は専ら飼育者であった彼らは、砂質高地[島の中で盛り上がった、浸水しない島状に点在する地帯]において農耕を採用した。後になって、Niger川左岸のAlbarkai[トレマ]ze[鋭アクサン]から来た専門的な漁民であるHaoussa族がこれに加わった。乾燥、降雨の不規則性、Niger川が泥で埋まり堤防が出来たこと、などは、次第に、この漁民共同体に住居のすぐ近くで濃厚も営むことを余儀なくさせた。


Peuls人が来る前にこの島への定住がなぜ行われなかったのかについてはいくつもの仮説が提示可能である。その第一として、川の両岸に住んでいた農耕者は、その当時、[農業を行うには]制約の多いこの島に定住する差し迫った必要性を感じていなかったのではないかということがある。ここが島であることは、第一に、7月から「白い水」(zarma語でkoi[トレマ]rey)まで、そして二番目に12月から「黒い水」(zarma語でhari bi)までの増水期における人々の移動の問題となって現れている。実際、増水期には、砂質高地だけが水に浸されず、人々に船での移動を余儀なくさせる本当の島々を構成する。


続いて、農地、とりわけ粟の大規模栽培に適したそれが取るに足らない[ほど少ない]ということがある。同じく、川の両岸に住む人々の砂質土壌における粟の栽培の伝統と、水の制御の問題がある。


人々は、島の上流部、haoussa語でtoudouと呼ばれるいくつかの砂質高地の島々が存在する部分に集中している。この島における三つの主要な居住地が存在するのは、このtoudouにおいてである。つまり、Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]と、KoroaとDjayoriの小集落である。


これらの固定居住地に加えて、その場所の変化の頻繁さが特徴的な幾つかの宿営地がある。このうちのあるものでは、羊飼いたちが、彼らの畑に堆肥を蒔く目的だけではなく、浸水する地帯(haoussa語でfodamaと呼ばれる)から逃れるためにも、乾期を過ごす。一方、下流部では入植は線的である。これは、川の土手(zarma語でdjabouと呼ばれる)に沿った、幾つもの宿営が連なった二つの不連続な線となっているが、とりわけ細い方の支流[Niger川の、Le[鋭アクサン]te[鋭アクサン]島の北東部を流れる部分、Mayel youna。島の南西を流れる方は太い方の支流(Mayo Mallal Maddi)の方に出現している。浸水地帯に出現するこれらの宿営地は、toudouにおけるそれと同様に、非常に移動的である。


彼らの移動性は、農耕における動物の損害を避けるために雨期には砂質高地)を空ける農牧者の心配によるものである。幾つかの年においては、川の増水が甚だしく、彼らに宿営地[での滞在]を切り上げ、toudouに戻るか、或いは川の左岸で移牧をするかを余儀なくさせた。これらの宿営地は、雨期が近くならなければ土手の上に現れず、収穫の後には放棄される。


このような農牧形態は、住居に極めて短い期間の、(雨期には人々が川の左岸の耕地のために放棄するBoutougouとFongokoliを別として)大抵は島内に限定された季節的な移動を課している。


下流部は飼育のために排他的に保留されており、更には、川の増水が年間を通じて居住することを妨げている。同様に、雨の穀物を栽培することも不可能となっている。(*原注2)入植網は、滅多に1kmに達しない空白によって隔てられている。




(*原注2)この部分、とりわけ直径 20mの高地地区であるBe[鋭アクサン]foにおいて、Be[鋭アクサン]nin人が2001年2月以降建物の建設を始めた。


Esperet, 1917 - Monografie de la subdivision de Gaya. Archive National du Niger: Niamey, 64p

Tabaskiの羊の取引の地理は、生産地盆地とDahraやBirkelaneのような消費市場との間を結ぶ本格的な装置、ないしは「ハブ」である幾つかの大きな中心、ないしは高所の周りに組織されている。一つともう一つの間の距離は数kmであり、KhomboleとTouba Toulは、Tabaskiの羊の取引についての他の二つの重要な市場である。これらは、時には補完的であるが、とりわけ競争的である。この二カ所は、Dakarへの距離の近さ、そして首都へ向かう日常的な交通網の恩恵を受けている。一つには、これらの周辺の農村地が、都市の中心へは向かうことの出来ない巨大な羊の群の貯蔵地となっているということがある。もう一つには、この二カ所は、大中心都市に最も近接した農村市場の一部となっている。この点において、これらは都市の消費者にとっての一種の周辺販売所となっている。


Touba Toulの市場は、Se[鋭アクサン]ne[鋭アクサン]galのこの地方における持つとも古いものの一つである。(*) しかし、これは、ここ数十年で新たな次元を獲得した。一つには、ここ十年間で税が継続的に軽減された。食堂[cantine]の月当たりの価格が2500~4000Fcfaの場所で、市場で日々行商人(baana-baana)から事前徴収される額が100Fcfa、荷車ごとに100Fcfa、売られた動物一頭ごとに100Fcfaである。加えて、全国的な農村社会基盤投資の支援のもと、最近約200の食堂が建設された。事前徴収される税は、毎年300万cfaフランの収入をTouba Toulの農村自治体にもたらしている。それは、[Touba Toulにとって]主要な収入であり、真性の収入のほぼ全てである。市はそこでは毎週開かれており、Tabaskiだけが行われているわけではない。Tabaskiが市の拡大に寄与し、動物取引の投機について年の他の時期よりも大きなものをもたらしているにせよである。


反対に、Khomboleでは、Tabaskiの準備の時期を除いて市は立てられていないが、2000年以降、この地はMauritanieの飼育者が「平和に」(*原注18)Tabaskiの羊を売りに来ることが出来る場所であるという評判を作り上げた。この地は、とりわけ牧草を食べることから帰った群が道の両側の可能な場所全て、村いっぱいの長さに渡って占領する夕方には、非常に印象的な場所となった。一方で、この市場はKhomboleの共同体とは無関係である。市長は政府が取った決定に従い、Tabaskiの期間中、動物の売り上げに対しても、行商に対しても、全く税を課していない。人々が市庁に対して自発的に認めるところでは、この制作を尊重することは容易であり、また正当なことである。なぜなら、市場に対する投資は全く行われていないからである。食堂もなく、水[水飲み場か、或いは水道か]もなく、電気もなく、整備された道の駅もない。


ここ数年間、Tabaskiは12月から2月の間に来ている。この時期は、収穫は終わっているが、端境期にはまだ遠い。この時期、農地は、Tabaskiで売るための小反芻動物の受け入れに好都合な枠組みを提供している。




(*)Van Chi Bonnardel R.N., Vie de relation au Se[鋭アクサン]ne[鋭アクサン]gal, la circulation des biens., IFAN, Dakar, 1976


(*原注18)Se[鋭アクサン]ne[鋭アクサン]gal領のMauritanie人に対する暴力(続いてMauritanie領内のSe[鋭アクサン]ne[鋭アクサン]gal人に対する暴力)から始った1989年と1991年のSe[鋭アクサン]ne[鋭アクサン]gal-Mauritanie間における紛争の記憶は、皆の心に残っており、今日でも、両者の間に恐怖や敵意を感じ取ることが出来る。

Tabaskiの羊の取引に際して、集荷市場、ないしは第一市場は、農村における週ごとの市や、内陸の中小都市における縁日である。集荷の一部はこれらの週ごとの市や縁日の外で行われる。しばしば、dioulaが直接に村の飼育者のもとを訪れて購入について交渉する。これらの商業化の最初の場所から、羊は時には歩いて、しばしば車(拾い乗せ車か小型トラック)で、より重要な市場、時には消費の中心地まで運ばれる。再集団化市場、ないしは中間市場では、そこまで商人や飼育者によって連れてこられた羊が大きな群を作り直す。彼らが出会うのは、最も大きな市場、例えば、全季節を通じてSe[鋭アクサン]ne[鋭アクサン]galで最も大きな家畜市場であるDahraか、地域規模の大市場であるがTabaskiの羊に関しては中心的なBirkelaneである。これらの市場は、生産市場地域と最終的な都市の消費市場との間にあり、選別と乗り換えが行われる場所である。Birkelane, Kaffrine, Tambacounda, Khombole、Touba Toulなどの市場の周りでは、市場により良い形で現れる前に、しばしば数週間にわたって群が牧草を食べている。


これらの地理的な構成の中で、Se[鋭アクサン]ne[鋭アクサン]gal南部は顕著に欠落している。Tabaskiはそこでも同様に祝われており(*原注15)、上Casamanceには、ANSDによれば、30万頭の羊がいる。一つには、南Se[鋭アクサン]ne[鋭アクサン]galの孤立をもたらしている領土的な構成の中で、Gambie回廊(*原注16)は部分的な救済にしかなっていない。もう一つには、南部で飼育されている品種は、Tabaskiではあまり好まれないdjallonke[鋭アクサン]種であるということがある。


Pikine-Sotibaの小反芻動物集積地は、Dakar地方への供給の十分な代表となっている。多くの動物は、河谷と森林牧草地(おおむねFerlo)からなる盆地からやってきており、供給の47%になる。MaliとMauritanieからの供給は、36%になる。[表1に、Pikine-Sotobaの市の羊の来所別の頭数と割合が掲げられている。(原拠DIREL)それによると、Maliからは2万9772頭(29.27%)、Mauritanieからは6724頭(6.61%)。]Maliからの羊には、実際にはMauritanieからKayesで積み替えられてやってくる羊がかなり含まれている可能性がある。


集荷市場まで、そしてしばしば中間市場までの移動に際しても、歩かせることが、最もよくとられる方法である。列車は、MaliとMauritanieの商人によって特権的に用いられる方法である。彼らは、Se[鋭アクサン]ne[鋭アクサン]gal川を渡って徒歩でDahraへ、そしてそこから更に南に向かうよりも、Maliの国境を越えてKayesで集合し、そこから列車に乗り、或いはトラックに乗る東回りの経路を好む。2000年以降、Mauritanieの飼育者が、以前そうしていたように、Korite(*原注17)を過ぎるとすぐに(Tabaskiの二ヶ月から10週前)、群を徒歩で連れてくることはなくなった。DIRELによって税関で取得された数字は、2008年についてこの印象を確認する。Saint-Louisの税関を通過したのは8.5%、Matamのそれは14.2%、Tambacoundaのそれは14.2%である。列車は、遅く、国境以外にも主要駅で群に餌を遣り水を飲ませるために何度も停止するが、それでも確実で大量輸送を可能にするものである。道路輸送については、Se[鋭アクサン]ne[鋭アクサン]gal内部であらゆる遠征が行われる。[輸送]価格は、Tabaskiの期間中は高騰し、例えば、Kayesからは15万Fcfaないしは37万5000Fcfa、DahraないしはLingue[重アクサン]reからは14万2000Fcfaないし27万5000Fcfaである。




(*原注15)下Casamanceでは、人口の25%以下が基督教徒、Casamance全体(KoldaとZiguinchor地方)では15%以下、Se[鋭アクサン]ne[鋭アクサン]gal全体では5%以下。


(*原注16)Gambieの領土を通っての南部と北部の間の通行を認めているSe[鋭アクサン]ne[鋭アクサン]gal・Gambie間の合意。


(*原注17)断食月の終わりを祝うAi[トレマ]d el Fitr

Tabaskiについては、動物の流入についての規制、市場の長の間の協議などは存在しない。各自は、自らの利益と市場経験によって動いている。彼らが、とりわけ電話を通じて価格や在庫についてやりとりするにせよ、命令が伝達されることはない。Pikine-Sotibaの市のte[鋭アクサン]fanke[鋭アクサン](*原注13)は、Dakarへの供給についての原則をこう述べた。「多くやってくれば来るほどよい。」


祭りは、まずは専門家にとっての事業である。飼育者にとっては、輸送・見張り・餌等にかかる費用を少なくするため、自身の空間に属する市場で一度に動物を売ってしまった方がいい。このために、Dahra, Birkelane, Tambacoundaなどの市場で、群の最も大きく美しい動物数十頭が一度に売られる。商人によって取られている戦略の一つは、まだ動物の価格が安い時期に前もって群を構成し、利鞘を最大化することである。そうすると、群は羊飼いに預けねばならず、費用がかかる上に失う危険もなしとはしない。一方また、多くの商人がTabaskiの活動を始めるのは祭りのわずか数週間前である。購入と販売の場所の選択は特に戦略的である。


だが、Tabaski経済の独自性は、飼育の専門家ではない人々の参加にある。皆が自分のあり方を持っており、飼育者にとっても、購入者にとっても、Tabaskiの活動は一つではなく、多様にある。


「専門外」の活動者には、大きく分けて二つの集団がある。一つは、大部分都市の住民、特に公務員・元公務員・退職幹部から構成されるものである。この活動者の範疇の中には、しばしば飼育について全く門外漢である非Peulsが見いだされる。彼らにとってTabaskiとは単純な購入(場合によってはつけによる)、ないしは多少の利益のための転売であるか、或いは、数ヶ月間にわたって獣を太らせるという本格的な肥育である。もう一つの集団は経済利益集団と協会であり、その多くは女性組織である。これらの団体はTabaskiの活動に大規模(数十頭にまでなる)に融資し、企業の委員会がやるように一種の購入中心を設ける。共通する動機は投機であり、綿・玉蜀黍・落花生などが、収穫直後に低価格で購入され、端境期に高価格で転売されているのと同様のものである。




(*原注13)te[鋭アクサン]fanke[鋭アクサン]は、獣を探すこと、見張り・輸送その他の問題の遣り繰り、売り主への宿泊の提供、(特に掛け売りに際し)取引の保証をして双方が誠実であることをうけあうなどして売り主を助ける一種の仲買人である。

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